学校いる? 毎日の授業は子供にとっちゃアラビア語!

1日に50分授業を6コマ、いたって普通の中学校での時間割である。しかしこの当たり前を根底から覆すようなテーマを投げかけてみたい。学校いる?

子供は居眠りの許されない長時間の授業、一方たった1時間の職員会議で居眠りする教員

授業中に居眠りをしていて起こされた経験はないだろうか。もちろん居眠りしている間の内容が飛んでしまう、という教師の配慮であるという一方、自分の授業中に寝ている生徒を許せないというプライドのある教師もいるだろう。一方で、1時間の職員会議で居眠りをしている教員もいる。本校で生徒の居眠りに一番厳しい教員も、それである。大人でも難しい1時間の集中、これを1日6時間、週5日、年間200日以上行う学校教育とはいかがなものなのであろう。

そもそも勉強、学びって何のため?

学びとは、もともと目的があり、それを達成する為のものであるべきである。例えば原始時代、何もない中ヒトは生活をよりよくするために武器を作り、稲作を始め、その中で文化を作り上げてきた。しかし現代はモノや技術で溢れ、スマホ1つで買い物から何から全てが完結してしまう時代である。その中で必要な学びとはなんだろか。僕が思うに、
この激動の時代の中で、主体性を持ち、答えのまだない問題を解決していく力新しいものを作り出していく力
過去や常識にとらわれず、多様化するこの社会に適応し生きていく力
この2つがやはり重要になってくると思われる。

そんな中、ひたすら世界の流れに逆行する学校教育

そしてそれに完全に反しているのが現在の学校教育である。学びに一番重要な目的を与えるということをせずに、ひたすら教科書をこなしていくこと、答えのある問題の解き方をひたすら教えていくこと、これが学校の授業のあり方である。もちろん目的のない学びなど、何の意味も持たない。過去の判例のみを学ぶこういった授業で、判例のない激動のこの時代を生きていく力は果たして少しでも身に付くであろうか。

毎日6時間強制的にひたすらアラビア語、勉強できる?

大人がいきなり明日から毎日6時間教室に押し込められて、とにかくアラビア語の授業を受けさせられるとしたらどうだろうか。好きでもない、よくわかんない、生きてく上で意味もない。居眠りは許されない。拷問では?
そんな馬鹿な話はない、と思うかもしれないが、子供の教科に対する姿勢も同じではないだろうか。何に使うのかもまったくわからない地理、古文、微分積分、子供にとってはアラビア語と一緒では?と思ってしまう。

しかしあなたがもし、現在中東では石油バブルが起こっており、日本語とアラビア語の通訳は時給5万円。ちなみにアラビア語は国連でも英語やフランス語と肩を並べる国連公用語でもあり、このカリキュラムが終われば必要な知識技能が身につきます。と言われたならば、学びに対する姿勢はどうなるだろうか。このように目的があることによって、人は学びに意欲が起こる。大人になってから勉強が楽しくなるのは、その点であろう。

主体性の無さが、日本人が英語を話せない大きな理由

日本の英語教育における問題点はとにかく多くあるが、その1つが、答えの1つではない問題を解く主体性を、学校では全く養えないことである。数学や理科、歴史などと違い、英語における答えは1つではない。例えば、夕飯たべた?の聞き方も、夕飯済ませた?晩御飯はどうした?など色々な聞き方があるが、こういった答えが1つではないものとなると日本人は過剰に拒否反応を起こしてしまう。実際定期テストでも、前半の文法問題や選択問題は完璧なのに、後半の作文問題になると白紙となってしまう、といったような生徒も少なくないのが現状である。自分で考えて答えを導き出すということが徹底的に苦手なのである。しかし先ほど述べたように。言語において答えは1つではない。逆に相手に伝えることが出来れば何でも正解なのがコミュニケーションとしての英語なのである。しかし、間違いをどうしても恐れてしまう日本人にとってこれが非常に高い壁であり、学校教育の根本的な指針が変わっていかない限り、これはどうにもならないであろう。そして何より、英語を勉強することの”目的”がなければ、英語の授業は大事な子供の時間のただの浪費である。

結論:学校は、真の学びの場としては機能していないよね

無理やり子供を起こさせて知識を詰め込むだけの教育は何も意味がない。逆に、授業では毎時間目的やテーマを与えてあげる、そしてその先の大きな目標を提案してあげる。そのことで、先ほどのアラビア語の例ではないが、子供は自主的に勉強をしていくだろう。そしてその、自分の意思でやる、自分の目標に向かう、というのが本来あるべき学びの姿であり、学校教育が根本的に変わらないといけない点であるだろう。そしてそれがない限り、学校の存在意義は生まれないかもしれない。もちろん、この資本主義の中で、新たな駒を生み出す、という目的を除けばではあるが。