生かすも殺すも教師次第 ~問題児=天才?~
問題児=発達障害の可能性大
みなさんが学校に通っていた頃、クラス内に常に動き回っていたり、授業中に色々な発言ばかりをしてしますようなクラスメイトはいなかったであろうか。恐らく誰しもが思い当たる節があると思う。もしくは今思うとご自身がその類であったと感じる方もおられるかもしれない。そういった子供は、恐らく”クラスの面白い生徒”もしくは”問題児”この2種類のどちらかに識別されてはいなかったであろうか。そして今日では色々な研究や認知が進み、これらの子供達は”発達障害”を持っているとされることが多い。例えばADHD。注意欠如や多動症が主な症状であるが、私はADHDをネガティブな”障害”という言葉を使って表したくはない。要するにADHDとは、とある能力が欠如する代わりに、とある能力がずば抜けている、いわゆる”天才”の素質を持った人間なのである。ADHDを持ってされる有名な人物としてあげられるのが、エジソンである。彼は小学校を退学となっているが、要するに他の子供達と同じ事ができない、問題児としての側面と、他の子供達ができない事ができたり、他と違った思考や想像力を持てる、天才としての側面、この2面性を持つのがこのADHDである。
オール3を目指す日本の教育で潰されていく子供達
ADHDの生徒でよくあるパターンは、通知表はオール2以下、しかし一度集中モードとなると、芸術や文学、スポーツなどで異常なセンスや集中力を見せる。しかし残念ながら日本の学校教育で圧倒的に重きを置かれるのは、この”通知表の成績が非常に悪い”という点である。そのことから、このような生徒達は落ちこぼれと判断され、良い所を伸ばすのではなく成績を上げるために無理やり机に向かわされる。”どれだけ野球が上手くたって、勉強ができなければ意味がないんだ”というような言葉を聞いたことはないだろうか。
しかしできないものはできない。この様に、才能のあるものは潰され、無理なものを強いられてしまった挙句、なんの良さも持てなくなってしまう子供が多い。私の勤務する学校の指導基準は、”オール3を目指す”というものである。要するに特出した才能や能力はいらない。平均的な人間を養成するというのが日本の教育の根源なのである。
シロクマは砂漠では生きていけない
よくある例えであるが、学校という砂漠の中で、無理であるにも関わらず無理やりここで生きろと強制されているのが発達障害を持った生徒(シロクマ)である。シロクマが砂漠でラクダ(他の生徒)と同じ生活をしろというのは、どうあがいても無理なことなのである。ではどうすれば良いか、答えは簡単である。氷を与える、もしくは北極に連れていく。
個性を尊重するフィンランドの世界最候補の教育
フィンランドでは小学校へ入学する前の1年間、無料で就学前教育(エスカリ)という教育を受けることができる。ここでのメインは、美術、演劇、音楽などの答えのない分野の教育である。このような教育の中で、自分の得意な分野を見つけたり、他の個性や性格を受け入れることのできる感性を養う。日本の教育がこれと圧倒的に違う面は、”これが正しいという一方的な答えを強制しそれに従わせる。従えない者はダメな人間とする”ということである。
時代に取り残される保守的教育界 現場の一人一人が立ち上がるしかない
今でも公教育における校則は、1873年に文部省が制定した「小学生徒心得」か基盤となっている。軍国主義のために全ての国民が同じ方向を向いていくための教育、これが現在の日本の教育でも変わらず適用されている。しかしこの多様化し日々目まぐるしく”常識”が変わっていく社会の中で、いかに一人一人の個性や主体性を大事に育てていくかが本当の教育に必要なものなのではないだろうか。過去の常識や固定観念にとらわれた答えを暗記していくだけの教育ではなく、柔軟な思考を持つことこそが今後の世界を生きていくためにとりわけ大切になってくる。しかし教育全体をこの様に変えていくのには根本から全ての価値観や教育界の中の常識を変えていく必要があり、それを達成するのは日本では永久に不可能であるかもしれない。しかし、この問題点に気付き、柔軟な発想の中で一人一人を個別に大切にしていく、この様な教員が現場で一人でも増えていく。今まで落ちこぼれとして排斥されてきた生徒の良さを引き出していける教員が一人でも増えていく事が今すぐにできる現場での最善の教育であるだろう。綺麗事ではなく、どんな不良でも、良いところが1つもない人間など存在しない。不良であることにではなく、その良い点に焦点を当て、一人のして生身の人間として育てていく。これは現在の私の個人的な教育へのテーマである。