教師の質を考える~そもそも教育って何?ギャグ大好きな教育現場~

教育のの目的とは?

私の思う真の教育の目的とは、子供を幸せにすることであり、一人一人にの個性にあった幸せの形を提案していくこと、これこそが教師の役目だと思っている。これは校長や教育委員会のお偉いさん方が何を言おうと揺るがないし、もしこれを変えなければいけないのならば、今日にでも教師を辞める気持ちで教師をやっている。しかし現実にはそういう思いを抱いて教師になったものの、日本の教育という渦に飲み込まれていってしまうことも少なくない。

主体性を育てる為のはずの挨拶運動で兵隊育成!www

本校での主体性を育てる為の取り組みとして、毎朝の挨拶運動がある。(現在はコロナ渦で一時中断している)生徒が主体的に挨拶を行える様、各クラス学級委員が毎朝校門に立ち、生徒に挨拶をする。挨拶を返さない生徒は教員に促され、なんとか挨拶を返す。これを学校や教員は本気で行なっているが、実際には教員が学級委員に挨拶を強制し、そして彼らがまた他の生徒に挨拶を強制する。これを本気で主体性の育成の為に行う学校、客観的に見るともうギャグである。

 

実際に主体性のある子供は潰されるのが日本の教育の実情

2年生になったばかりのS子は内気な性格で、勉強もなかなかおぼつかない。(私はADHD気質ありと考えている)挨拶をなかなかする事ができず、年寄りで老害気質のG教員に毎朝挨拶を促される。そして職員室では、”S子はいつまでも挨拶が出来ずに本当に暗い奴だと度々話題に出る。しかしS子の才能を知っている私は、覚悟を決めて言ってみた。

「実はS子は驚くほど絵が上手くて、文才もあるんです。将来は漫画家になりたいそうで」

G「そんなのあんな成績じゃ無理に決まってるよ、高校すら怪しいじゃないか」

もう食い気味、そして”教師の為の教科書”の1ページ目に書いてありそうな定型文に笑いさえ覚えた。英語でいうところの”This is a pen”これをこの日常でも使っているとは。さてこのコメントをじっくりと料理していこう。

自らが主体性どころか考える事をやめてしまっている教員

先のG教師のコメントについて。

まず14歳の時点で無理なことがありうるのか?

漫画家になりたい事と成績は関係あるのか?

高校に行けないと漫画家になれない?

勉強ができないと漫画は無駄だと言いくるめ、漫画の才能をないがしろにしながら勉強を押し付けることがS子の本当の幸せに繋がるのであろうか。

揚げ足取りの部分もあるが、要するに生徒の個性や真の主体性を認めず、この様な愚かな教育論を今の時代でも持ち続ける教員が、この激動の時代を幸せに生き抜く教育を施せるとは到底思えない。むしろ真反対の教育が実際に日本では行われていることがある。

真の意味での多様性を認め、真の主体性を養っていくということをもう一度根本的に考えない限り、上っ面だけで主体性の向上などという教育改革は不可能であると断言できる。

生かすも殺すも教師次第 ~問題児=天才?~

問題児=発達障害の可能性大

みなさんが学校に通っていた頃、クラス内に常に動き回っていたり、授業中に色々な発言ばかりをしてしますようなクラスメイトはいなかったであろうか。恐らく誰しもが思い当たる節があると思う。もしくは今思うとご自身がその類であったと感じる方もおられるかもしれない。そういった子供は、恐らくクラスの面白い生徒もしくは問題児この2種類のどちらかに識別されてはいなかったであろうか。そして今日では色々な研究や認知が進み、これらの子供達は発達障害を持っているとされることが多い。例えばADHD。注意欠如や多動症が主な症状であるが、私はADHDをネガティブな障害という言葉を使って表したくはない。要するにADHDとは、とある能力が欠如する代わりに、とある能力がずば抜けている、いわゆる天才の素質を持った人間なのである。ADHDを持ってされる有名な人物としてあげられるのが、エジソンである。彼は小学校を退学となっているが、要するに他の子供達と同じ事ができない、問題児としての側面と、他の子供達ができない事ができたり、他と違った思考や想像力を持てる、天才としての側面、この2面性を持つのがこのADHDである。

 

オール3を目指す日本の教育で潰されていく子供達

ADHDの生徒でよくあるパターンは、通知表はオール2以下、しかし一度集中モードとなると、芸術や文学、スポーツなどで異常なセンスや集中力を見せる。しかし残念ながら日本の学校教育で圧倒的に重きを置かれるのは、この通知表の成績が非常に悪いという点である。そのことから、このような生徒達は落ちこぼれと判断され、良い所を伸ばすのではなく成績を上げるために無理やり机に向かわされる。”どれだけ野球が上手くたって、勉強ができなければ意味がないんだ”というような言葉を聞いたことはないだろうか。

しかしできないものはできない。この様に、才能のあるものは潰され、無理なものを強いられてしまった挙句、なんの良さも持てなくなってしまう子供が多い。私の勤務する学校の指導基準は、オール3を目指すというものである。要するに特出した才能や能力はいらない。平均的な人間を養成するというのが日本の教育の根源なのである。

 

シロクマ砂漠では生きていけない

 

よくある例えであるが、学校という砂漠の中で、無理であるにも関わらず無理やりここで生きろと強制されているのが発達障害を持った生徒(シロクマ)である。シロクマが砂漠でラクダ(他の生徒)と同じ生活をしろというのは、どうあがいても無理なことなのである。ではどうすれば良いか、答えは簡単である。氷を与える、もしくは北極に連れていく

 

個性を尊重するフィンランドの世界最候補の教育

フィンランドでは小学校へ入学する前の1年間、無料で就学前教育(エスカリ)という教育を受けることができる。ここでのメインは、美術演劇音楽などの答えのない分野の教育である。このような教育の中で、自分の得意な分野を見つけたり、他の個性や性格を受け入れることのできる感性を養う。日本の教育がこれと圧倒的に違う面は、これが正しいという一方的な答えを強制しそれに従わせる。従えない者はダメな人間とするということである。

 

 

時代に取り残される保守的教育界 現場の一人一人が立ち上がるしかない

今でも公教育における校則は、1873年に文部省が制定した「小学生徒心得」か基盤となっている。軍国主義のために全ての国民が同じ方向を向いていくための教育、これが現在の日本の教育でも変わらず適用されている。しかしこの多様化し日々目まぐるしく常識が変わっていく社会の中で、いかに一人一人の個性や主体性を大事に育てていくかが本当の教育に必要なものなのではないだろうか。過去の常識や固定観念にとらわれた答えを暗記していくだけの教育ではなく、柔軟な思考を持つことこそが今後の世界を生きていくためにとりわけ大切になってくる。しかし教育全体をこの様に変えていくのには根本から全ての価値観や教育界の中の常識を変えていく必要があり、それを達成するのは日本では永久に不可能であるかもしれない。しかし、この問題点に気付き、柔軟な発想の中で一人一人を個別に大切にしていく、この様な教員が現場で一人でも増えていく。今まで落ちこぼれとして排斥されてきた生徒の良さを引き出していける教員が一人でも増えていく事が今すぐにできる現場での最善の教育であるだろう。綺麗事ではなく、どんな不良でも、良いところが1つもない人間など存在しない。不良であることにではなく、その良い点に焦点を当て、一人のして生身の人間として育てていく。これは現在の私の個人的な教育へのテーマである。

クラス替え〜生徒を殺す教師〜

本校は学年毎に4クラスずつあり、基本的にはまず期末テストや学力テストを元に、学力を基準に平均的に生徒を振り分ける、そして問題児やピアノの弾ける生徒が偏らないように調整し、担任をする4名が相談し、どのクラスを持ちたいかをまず決める。そこから始まるのが生徒ドラフトである。基本的には嫌な生徒を他へ排出し他の生徒と変えてもらう、という形であるが、実際に現場ではこんな事例がある、ということをお伝えしたい。

自分の考えに背く生徒は潰す〜優等生O、最低教師NGの場合〜

当学年は今年度3先生。その中で、生徒Oは体格がよく、運動神経が抜群、外部野球で活躍している。一方学校では、オール4といった具合で勉強も頑張っており、目立つ存在ではないが芯を持った生徒である。最近では色々な本を読み、自分のあり方や人生の歩み方など色々と考えをめぐらせているようで、私自身もこの生徒には一目置いている。そしてそこに目をつけたのが、この50才主幹教師、NGである。この男は教師としてだけでなく、人として見たことがないくらい根が腐った人間であり、全生徒から嫌われている。新任教師へのパワハラで胃腸炎を起こさせ2週間仕事にこれなくさせたりもしているが、日頃からの校長への生生しいゴマすりでそこはうまく切り抜けているようだ。(GTOでいう、内山田教頭の腰巾着である中丸教諭。ドラマ内であるような光景が、誇張ではなく全く同じ様に現場でも起こっていて最初は唖然とした。)ではどのようにこの教師が腐っているのかというのを、このO君の例でお話してみたい。OはNG教員のクラスに割り振られた。前年度は担当していない。


NG「こいつは最近訳わかんねえ啓発本かなんか読んで図に乗ってんだよな、こういうやつが一番めんどくせえんだよ。」「今は大人しくしてるけど、勘違いして来年学級委員なんかに立候補してきたらたまったもんじゃねえからこいつは俺のクラスで潰す」「こういう変な考えを持ち始めたやつがどんどん曲がった方向にいくんだよ、野球なんかもやめちまえばいい

唖然として言葉がないどころか、怒りで腹わたが煮え繰り返りそうだった。少なくとも前回彼が真面目に昼休み中読んでいた本は、人との関わり方やコミュニケーションをテーマにしたものだったが、主観だけでよく人の事をここまでけなすことができるものである。そして何より、こいつ(敢えてそう呼ばせていただく)は生徒の人生を左右できる存在なのである。なんの権限がありこんなことができるのかわからないが、御察しの通り、この教師は本当にこういった姿勢で生徒と接し、活気のある教員NGのクラスの生徒達が実質殺されていくのを昨年度も目の当たりにしている。

 

学校だけじゃなく、社会にはクソがたくさんいる。でもそこから学ぶことの大切さ

今回どうしてもお伝えしたかったことは、どうか主観や先入観、エゴで子供の主体性や将来を潰さないで欲しいということである。もちろん教師も人間、好き嫌いもあるだろう。しかし特に中学生など、大人の影響でどのような道に進むかが決まってしまうこともあるほど大切で多感な時期である。どうかその事を常に念頭に置いていただきたい。

そしてまた、もしあなたがこういう大人や教師と出会ったとしたら、どうか自分を殺さず真っ直ぐに生きて欲しい。教師であろうと正しいことを常に言っている訳ではない。人間なのだから間違いも起こすし、クソもいる。そんな時にはどうか腐らず、自分の道は踏み外さず、こういう人間にだけはならないようにしようと強く心に思い留めて欲しい。どんな人間からでも学ぶことはできる。

どうか学校が、真の意味で”生徒のため”の機関であるということを願う。

 

 

 

英語は料理 飢餓状態の日本人達

日本人は英語が話せないのは、単純に料理をしないから。

小学校高学年から英語が必修化され、加えて中学で3年。義務教育の中で最低5年は学ぶこの日本で、外国人と簡単な日常会話を普通に楽しむことができる日本人が何人いるだろうか。

単語は具材、文法は調理方法

勉強とは、目的がなければ意味がない。英語を料理に例えてみよう。単語は具材、文法は調理法、そして実際に料理をして食べるという目的が、英語で言うと他者とコミュニケーションを取る、ということであろう。

そして日本の英語教育を見てみると、

単語帳で単語をひたすら覚える=具材集め

基本的な単語はじゃがいもや人参などの基本的な具材。そして学年が上がるごとに段々と難しい単語を覚える。料理で言えば、インドの香辛料各種、また中国の薬草のようなものも。

文法をひたすら覚える=調理方法を覚える

包丁の持ち方や具材の切り方、具材の茹で加減や中国のそれぞれの薬草の詳しい調理方法など。

 

さあ世界中の具材を準備しました。調理方法も勉強しました。んで調理しません食べません

そう、世界中の具材を集めまくって、その間にどんどん他の具材は腐っていく。調理方法は次から次に覚えるが、実際には調理しないので、どんどん忘れていく。そして料理を実際にして食べる(色々な国の人と実際に話す)ことはしない。こんな英語教育は、飢餓状態の日本人を生み出していくだけである。

カレーが食べたきゃ人参玉ねぎじゃがいも肉、ルーでOK

まずカレーを食べる(英語で挨拶を交わし軽く話す)という目的を最初に立てる。そうするとおのずと必要な具材(単語)と調理法(文法)がわかる。そして実際に調理をし、食べてみて初めて料理をするということが、幸福感とともに完結する。カレーを調理するのに百薬草やドリアン、みじん切りのコツは必要ない。そしてカレーを美味しく食べたれたら、他の色々な料理に挑戦していく、この流れは英語学習でも全く一緒である。

食べる機会を増やしていこう

実際に食べる場がない日本の英語教育現場では、学びに楽しみがなく、主体性も生まれない。この食べる喜び(英語で自分を表現し、他者とコミュニケーションを取れることの喜び)を毎回味わうことこそが英語学習の醍醐味だということを念頭においていくと、自然と英語学習の内容やモチベーションも変わっていくだろう。もちろんその過程で美味しい料理ができないこともあるかもしれない。それでもなんとか食べてくれる友達や恋人がいる(文法がごちゃごちゃであろうと理解してくれようとする相手がいる)。そして次回はきっと美味しいものを作ろうと、失敗点を見直し修正する。もっと豪華なものを作ろうと、新たな具材や調理方法(現在完了等)を勉強する。これこそが英語学習の醍醐味である。

大人の”機会がない”は今やただの言い訳....

今ではオンライン英会話で、フィリピン人の先生と30分200円を切る値段で英会話ができる。(参考:レアジョブ)
ん、ネイティブじゃない?いやいや、ミートソーススパゲッティを作ってみました、ってことでイタリアのプロのシェフに試食してもらわないといけないのだろうか?味覚を持っている人なら誰でも味がわかるはず。そして少しくらい調理方法が違っても、自分なりのアレンジを加えるのもあり。大切なのは、料理(アウトプット)をしていくこと。具材を集めて調理方法を学んだら、美味しいものをたくさん食べていこう。

 

 

学校いる? 毎日の授業は子供にとっちゃアラビア語!

1日に50分授業を6コマ、いたって普通の中学校での時間割である。しかしこの当たり前を根底から覆すようなテーマを投げかけてみたい。学校いる?

子供は居眠りの許されない長時間の授業、一方たった1時間の職員会議で居眠りする教員

授業中に居眠りをしていて起こされた経験はないだろうか。もちろん居眠りしている間の内容が飛んでしまう、という教師の配慮であるという一方、自分の授業中に寝ている生徒を許せないというプライドのある教師もいるだろう。一方で、1時間の職員会議で居眠りをしている教員もいる。本校で生徒の居眠りに一番厳しい教員も、それである。大人でも難しい1時間の集中、これを1日6時間、週5日、年間200日以上行う学校教育とはいかがなものなのであろう。

そもそも勉強、学びって何のため?

学びとは、もともと目的があり、それを達成する為のものであるべきである。例えば原始時代、何もない中ヒトは生活をよりよくするために武器を作り、稲作を始め、その中で文化を作り上げてきた。しかし現代はモノや技術で溢れ、スマホ1つで買い物から何から全てが完結してしまう時代である。その中で必要な学びとはなんだろか。僕が思うに、
この激動の時代の中で、主体性を持ち、答えのまだない問題を解決していく力新しいものを作り出していく力
過去や常識にとらわれず、多様化するこの社会に適応し生きていく力
この2つがやはり重要になってくると思われる。

そんな中、ひたすら世界の流れに逆行する学校教育

そしてそれに完全に反しているのが現在の学校教育である。学びに一番重要な目的を与えるということをせずに、ひたすら教科書をこなしていくこと、答えのある問題の解き方をひたすら教えていくこと、これが学校の授業のあり方である。もちろん目的のない学びなど、何の意味も持たない。過去の判例のみを学ぶこういった授業で、判例のない激動のこの時代を生きていく力は果たして少しでも身に付くであろうか。

毎日6時間強制的にひたすらアラビア語、勉強できる?

大人がいきなり明日から毎日6時間教室に押し込められて、とにかくアラビア語の授業を受けさせられるとしたらどうだろうか。好きでもない、よくわかんない、生きてく上で意味もない。居眠りは許されない。拷問では?
そんな馬鹿な話はない、と思うかもしれないが、子供の教科に対する姿勢も同じではないだろうか。何に使うのかもまったくわからない地理、古文、微分積分、子供にとってはアラビア語と一緒では?と思ってしまう。

しかしあなたがもし、現在中東では石油バブルが起こっており、日本語とアラビア語の通訳は時給5万円。ちなみにアラビア語は国連でも英語やフランス語と肩を並べる国連公用語でもあり、このカリキュラムが終われば必要な知識技能が身につきます。と言われたならば、学びに対する姿勢はどうなるだろうか。このように目的があることによって、人は学びに意欲が起こる。大人になってから勉強が楽しくなるのは、その点であろう。

主体性の無さが、日本人が英語を話せない大きな理由

日本の英語教育における問題点はとにかく多くあるが、その1つが、答えの1つではない問題を解く主体性を、学校では全く養えないことである。数学や理科、歴史などと違い、英語における答えは1つではない。例えば、夕飯たべた?の聞き方も、夕飯済ませた?晩御飯はどうした?など色々な聞き方があるが、こういった答えが1つではないものとなると日本人は過剰に拒否反応を起こしてしまう。実際定期テストでも、前半の文法問題や選択問題は完璧なのに、後半の作文問題になると白紙となってしまう、といったような生徒も少なくないのが現状である。自分で考えて答えを導き出すということが徹底的に苦手なのである。しかし先ほど述べたように。言語において答えは1つではない。逆に相手に伝えることが出来れば何でも正解なのがコミュニケーションとしての英語なのである。しかし、間違いをどうしても恐れてしまう日本人にとってこれが非常に高い壁であり、学校教育の根本的な指針が変わっていかない限り、これはどうにもならないであろう。そして何より、英語を勉強することの”目的”がなければ、英語の授業は大事な子供の時間のただの浪費である。

結論:学校は、真の学びの場としては機能していないよね

無理やり子供を起こさせて知識を詰め込むだけの教育は何も意味がない。逆に、授業では毎時間目的やテーマを与えてあげる、そしてその先の大きな目標を提案してあげる。そのことで、先ほどのアラビア語の例ではないが、子供は自主的に勉強をしていくだろう。そしてその、自分の意思でやる、自分の目標に向かう、というのが本来あるべき学びの姿であり、学校教育が根本的に変わらないといけない点であるだろう。そしてそれがない限り、学校の存在意義は生まれないかもしれない。もちろん、この資本主義の中で、新たな駒を生み出す、という目的を除けばではあるが。

時代遅れな校則①:三つ編み禁止、ツインテールは!? 学校の常識=非常識

世にも奇妙な職員会議

タイトルの通り、本校では三つ編みが禁止である。理由は、個性が出てしまうからである。先日年度末の生活指導部の会議で、ツインテールOKかどうか約30分の話し合いが持たれた際には、これは世にも奇妙な物語の1シーンなのではないかと思ってしまった。結果はもちろん、NGである。

 

学校教育の指針とは

全員が同じ規則に従い、出来るだけ同じ装いをし、成績に関しては全員がオール3を目指す(本校校長及び教育委員会の方針)、これが2021年現在の教育現場の状況である。

学ランのボタンが1つ留まっていない生徒は、犯罪者であるかのように見られ怒鳴られる。ここは戦中か?とも思ってしまう。

 

過去の常識=非常識、現在の校則は、電話もない頃に作られた

そして怖いのは、先生方はそれが完全に正しいと思い指導をしているという点である。そのようなことは、学校内では常識だからである。しかし、常識とは何かと考える教員はいるだろうか。現在の校則の原型は1873年に文部省が制定した「小学生徒心得」と考えられる。ちょうどグラハムベルが電話機を発明した時期である。その当時の校則が、中学生ですらほぼ全員スマホを持っているこの現代で適用されているのである。そしてそのスマホでのネット取引で何億ものお金が動かせるこの時代、要するに明治時代の校則を常識として押し付けるのは実は非常識なのである。こういった変化に対応していけない日本の教育では、この激動の時代を生き抜く知恵を子供達に授けていくことは不可能だろう。そういった課題についても、今後このブログ内で議論していきたいと思う。

 

 

不登校、落ちこぼれから日本一ユニークな教員へ

初めまして、現役公立中学校英語教師のマイクと申します。このブログでは、世界各地で色々な仕事を6年に渡り経験した後に教員となった自分の学校•教育関連および世界中での様々な体験等を綴っていきたいと思います。

 

まず自己紹介から。元々朝起きるのが超絶苦手で、中学高校はほぼ昼登校、単位もギリギリで240人中最下位の成績で高校を卒業。今でも高校留年する夢を毎週のように見ますが、あのどん底の状況で3年間で高校を卒業できたという実績が現在の”なんでも出来る!”という自信となっています。まあそんな具合で要領だけはよく、現役で大学に合格、教員免許を取得しなんと4年で卒業、その後独学で英語を学びTOEIC980点を取得。

 

大学卒業後はただ教員になるのもつまらんと思い、東南アジアに逃避行。数ヶ月滞在のつもりが約4年半定住。英語や音楽関係の仕事やはたまた起業などをし、その後1年半をカナダにて過ごしました。ここら辺の経験はまた改めて。

 

そして現在はとある都道府県のほぼ底辺公立中学で毎日色々と葛藤、試行錯誤しながら自分の生きてきた経験を活かして、英語および生徒に様々な生き方を提案できる教育を目指しています。そしてその多様性や自主性というものは、今後世界で生きていく為に一番大切であるべきであるにも関わらず、日本の学校教育の中では実は非常に否定的に捉えらてしまっています。その点に関する考察なども自分なりに書いていきたいと思います。

 

このブログがどこにこれから繋がっていくのかはわかりませんが、この僕のブログ物語をこれから一緒に楽しんでいただけたら幸いです。